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・・・・・・・その後も軍服まがいの服装に軍刀をぶらさげて「軍命令」をちらつかせたり、「いずれ女 子挺身隊で徴用されるぐらいなら」と言葉巧みに持ちかける業者や周旋人が横行した。ところが、1941年夏の関特演あたりから朝鮮半島で官斡旋 の募集方式が導入されたようだ。
関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に40万から70万へ増強する緊急動員だったが、島田俊彦『関東軍』 の記述や千 田夏光が主務者の関東軍後方参謀 原善四郎元中佐からヒヤリングしたところでは、約2万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督婦に飛来して、募集 を依頼した( 千田『従軍慰安婦 正編』 )
結果的には娼婦をふくめ8千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事 → 群守 → 面長(村長) のルートで割り当てを下におろしたという 。
実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘達は一抹の不安を抱きながらも ”面長や巡査が言うことであるか ら間違いないだろう”と働く覚悟を決めて」応募した。実情はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」( 金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 )になったと思われる。
『昭和史の謎を追う(下)』 秦郁彦 著
第41章 従軍慰安婦たちの春秋 P334,335
今や日本の軍部は・・・・重大犯罪であった女子誘拐および売春行為を公然と認め、・・・・また一方の売春業者は軍 の威厳の下に大手を振って大量の朝鮮女性を白昼堂々と連れ出すことが可能となったという訳である。総督府→道庁 → 群庁 → 面(村)事務所 あての 伝達により、(白昼どうどう連れ出すことが可能になったのである)。・・・・・・・(P52)
この関特演という名の対ソ作戦準備は、ヒトラーのドイツ軍の対ソ戦開始(1941、6、22)から10日目の事である。日本軍はソ連の背後を脅かしながら、サハリン(樺太)全土とソ連領土一部割譲要求をつきつけるべく虎視眈々としていたのだ。 ・・・・・・・関特演の名で増員された30数万の兵隊に見合うだけの慰安婦も急遽必要だったのだ。こうなっては従来のように個々の売春業者に任せておけないとみえて、関東軍司令部の補給担当参謀・原善四郎が飛行機で京城に乗込み、朝鮮総督府総務部に娘2万名の急遽募集を依頼した。(千田夏光『従軍慰安婦』)
当節は軍の要求するものは何でも通るものと相場が決まっていた。このたびの未婚女性”2万名供出”さわぎは、朝鮮全土を振るわせた。
朝鮮での女集めには、だましとおどかしと、おだての三拍子がそろい、そのルートも決まっていた。関東軍から”女の供出”を依頼された朝鮮総督府は、 例によって道知事へ命令し、道知事は各郡守へ伝達し、郡守は面(村)長宛に、割り当てていく。そして命令の実施の上でサーベルを効かすために各道警 察部→各警察署→巡査駐在所へと下達される。
こうして末端の面長と巡査は、指令されたような真っ赤な嘘を掲げて生娘を集めるのだった。その文句も定まっていた。━「お国のためになる仕事だよ」 と半ばか勧誘し、半ば強制した。もし娘達が、それをのがれようと逃げ回るものなら、背負いきれない過酷な穀物供出の割り当てを押し付けて報復する。
そこで娘達は、一抹の不安を抱きながらも”面長や巡査のいうことであるから間違いないだろう”と、働く覚悟を決めて集まる。その仕事というのは、軍隊の被服繕か 看護婦手伝いのようなものと思っていた。まさか軍隊の慰安婦にされるとは思っていなかった。
かくして1万人に近い朝鮮の娘が狩り出されて臨時列車に乗せられて北上し、「ソ連国境」地帯の各部隊に配給された。・・・・・・・・原善四郎が語る ように「奉天(瀋陽)の駅で出迎えたときは華やかなものでした。」というから、その大がかりさがうかがわれる。
『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 (P57、58)
41年の関東軍特別演習に際して、関東軍参謀原善四郎中佐は軍慰安婦2万人が必要と計算し、朝鮮側に割 り当てたが、実際には8000人が集められた、と言う。
『関東軍━在満陸軍の独走』 島田俊彦著 1965 中公新書 P176
東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女 性ばかりではなく日本女性も・・・・・・三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けにいなった女性の姿・・・・・・・これらの朝鮮女性 は「従軍慰安婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で≪営業≫するとは思ってもいなかったと言う。それが満州各地に送りこまれ て、言わば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。・・・・・
『関東軍軍隊日記』 長尾和郎著 1968
1942年の春、満ソ国境の近くの小城子という町で独立守備中隊が駐屯し、軍専用慰安所があり、そこに「又春」と言う名の朝鮮人慰安婦がいたという。 彼女の育った家は、別に貧しくもなかったが、町の世話人のすすめで、満州女子奉仕隊の応じたという。その時彼女は19才(満18) であった。仕事は日本兵の衣類の繕い物から洗濯などで、月給は住居つきで100円、支度金の欲しいものには30円の前渡しという触れ込みであった
『ルソン死闘記』 友清高志著 1973年
黒龍江省富錦で一人の朝鮮人慰安婦から聞いたもので、「『関東軍戦時特別挺身隊』という事でしたが、 実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いておりました。・・・・朝鮮人女性は、京城の駅に2000人が集められ、列車に乗せられて、満州の新京に下ろ されました。そこで、20人から30人に分けられ、また列車に乗せられ、各地に送られて行きました。
通信教育隊 1992年73才
〔従軍慰安婦110番―電話の向こうから歴史の声が〕
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