資料集
『戦塵にまみれた青春』 若八会九州支部編 1977,8
マニラ 1942、43
陸軍経理学校幹部候補生隊(第八期)の生存者
山口栄一・船舶工兵第一連隊
船はパシフィック丸という7千トンの貨物船
出航地は宇品
1942年5月ころ
駆け寄ってきた参謀から声をかけられて
「丁度よかった。今、お前達を呼びに行くところであった。命令を伝達する。この船に娘子軍200人を乗せて
いるので、マニラまで、その輸送指揮を命ずる」というのである。
『生ある限りルソンへ』 磯崎隆子著 1984
ルソン島北部 サンフェルナンド 相手は司令部下士官
末期戦局 敗走する中で タイピストとして軍属だった彼女に
「慰安婦になるなら面倒を見てやる、他のものとも相談するように、と副官が言っておられるが、どうか。
衣食住の保障つきで、それならもちろん、トラックで運んでもらえるよ」「慰安婦!?」慰安婦がどういうものか、
当時の私にはよく理解できなかったが、およそ見当がついた。異様な辱めを受けたようで、頭がくらくらっとなった。
『戦争の横顔』 寺崎浩著 1974
ペナン シンガポール 1941〜43
報道班員
海軍部隊が入ってきて、海岸地帯を手にいれていた。海岸沿いのホテルをいくつか接収し、学校を手に入れていた。翌日には若い
女の子、主として英語のできる中国娘を連れてきて慰安所を開いていた。
1941、12、20ペナン
「支配人て何者だい?」「日本橋の料理屋の番頭よ。それが監督にごまをすってるでしょう。だから強いのよ。」監督という
のは兵枯参謀のこと。一参謀の命令で、旅館、慰安所、宿舎、料亭は思い通りに動かせるのだ。
(会話の相手は将校集会所「図南クラブ」のホステス、シンガポール)
『ビルマ日記』 榊山潤 1963
ラングーン 1942
報道部員
ラングーン市内に基督教青年会館がある。朝鮮の女子部隊が到着して、その女子部の会館が女郎屋
になったのは、10日ばかり前からで・・・・・・「アリラン部隊来る」と書いてある・・・・・・その最初の日には、1人の女が50人から70人
を相手にした、というような話も伝わってきていた。
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1942,617
「アリラン部隊は公許だ。女郎屋の亭主が軍と結託して、ひと儲けに乗り出してきたのだからね。ああいう私娼をバッコさせては、公許の女郎
屋の亭主の儲けがうすくなる。うすくなっては、軍として申し訳ない。そこで手入れとなるのが当然の成り行きだ。」「女郎屋の亭主の利得を、軍が
保護するということか」
『戦場と記者』 小俣行男著 1967 岡山医大出身の軍医 タイ、シンガポール、ビルマへ
この場所はラングーン 1942
539通の軍事郵便を元にした回想記である
・・・・この朝到着したのは貨物船で、朝鮮の女が4,50名上陸して宿舎に入っていた。
私の相手になったのは、23,4才の女だった。日本語はうまかった。公学校で先生をしていたといった。「学校の先生がどうしてこんなとこ
ろにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に悔しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集
がありました。私は東京へ行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京へ行かずに南へとやってきて、着いた
ところはシンガポールでした。そこで半分くらいが降ろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰わけにも行かず逃げることもできません。
私たちはあきらめています。ただ可哀そうなのは何も知らない娘たちです。16,7の娘が8人います。この商売はいやだと泣いています。助ける方法はあ
りませんか」
筆者は考えて憲兵隊に逃げ込んで訴える・・・方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信がなかった。結局8人の少女は憲兵隊に救いを
求めた。8人は将校クラブに勤めるようになった。しかし、将校クラブは安心なところではない。
「この後この少女達はどうなったろうか」と記している。
『最悪の戦場に奇跡は なかった』 高崎伝著 1974
1945、7,8月 シャン高原からタイに行く途中
(最悪の戦場であったガダルカナルの生き残りは国に帰さない・・という軍の方針があった。国元に伝えられては困るからである。そういう訳で筆者は次
なる最悪の戦場たるインパールに追いやられた。したがってその両方を生き抜いたもの達はほとんどいない。)
・・・・軍の女郎屋の女将が、軍票をリュックにドッサリ詰め込んで行進していたが、ついに落伍して「兵隊さん・・・・お金やるから、荷物持ってください
よ」と、哀れな声で頼んでいたが、兵隊たちは笑って、「おばさん、もう軍票は役にたたんとバイ。みんな捨てちまいなよ」冷やかす兵士たちを女将はうらめ
しそうににらみつけていた。
『ある陸軍予備士官の手記』 中村八朗著 1978
作家、元大尉 1942,3 スマトラ西メラボウ
ある日中隊長は、私に対して、「慰安所を作れ」と命令を下した。私は・・・軍医と相談して慰安所を作ることになった。
『ルソン死闘記』 友清高志著 1973年
1942年の春、満ソ国境の近くの小城子という町で独立守備中隊が駐屯し、軍専用慰安所があり、そこに「又春」と言う名の朝鮮人慰安婦がいたという。
彼女の育った家は、別に貧しくもなかったが、町の世話人のすすめで、満州女子奉仕隊の応じたという。その時彼女は19才(満18)であった。仕事は
日本兵の衣類の繕い物から洗濯などで、月給は住居つきで100円、支度金の欲しいものには30円の前渡しという触れ込みであった。彼女には恋人がいた。
一年働けば金も貯まる。その時、帰って結婚しようと思っていたのだが。
『回想のフィリピン戦線』 鈴木俊雄著 1979 軍医
別棟の建物へと入るとベットが6,7台のカーテンで仕切られている。他の外地では朝鮮人が使われていたようだが、ここでは全部比女性だ。
『赤紙兵隊記』 いまいげんじ著 1987 他の著作 『シベリヤの歌』
・・・・いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった。
『戦魂』 直井正武著 俳人 1973
ここの朝鮮人婦人たちがどうした経由でやって来たかは知らないが、狩り出されたということだけは否めないだろう。もっとも、日本人娼妓も高級用として渡ってきて
はいたが━。
『関東軍軍隊日記』 長尾和郎著 1968
東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も・・・・・・三畳ぐらいの板の間に
せんべい布団を敷き、その上に仰向けにいなった女性の姿・・・・・・・これらの朝鮮女性は「従軍慰安婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められ
たため、施設で≪営業≫するとは思ってもいなかったと言う。それが満州各地に送りこまれて、言わば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命
になった。・・・・・・
『兵隊達の陸軍史』 伊藤桂一著 1969
・・・・・慰安婦の多くは騙されて連れてこられたのである。
北支那の著者のいた駐屯地には、兵員600に対して朝鮮人慰安婦が4人いた。
『戦旅の手帳』 伊藤桂一著 1986 直木賞作家
『落日の戦場』『静かなノモンハン』などの作品あり
敗戦によって軍票が無価値になったため、只奉公をした事になる。戦争の最大の被害者は戦場慰安婦であり、かつ彼女達の功績も黙殺できない、従って慰安婦
の忠魂碑も建てるべきだ、と書いたことがある。
騙すのは、看護婦にする、と言うのと、食堂の給仕する、というのと、つまり肉体供与を条件とせず連れて行って、現場についたら因果を含めた
ものである。逃げる方法はない。
蕪湖で、私は有利な有利なポストにいた関係上、なんとなしに朝鮮人慰安婦たちの相談役みたいな仕事?をしていて、・・・・・20人ほどいる女の中で気質の
悪いのはいなかった。
『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著 1981
1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。
「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて
「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが
、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ
。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を
渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
『戦中派の遺言』 戦中の会編 1979
1942〜43 のラバウル
日本の女性と朝鮮の女性とは、待遇から料金まで、あらゆるところに差別がありました。例えば・・・兵隊さん相手のは、日本人で3円、朝鮮女性は2円
か1円50銭でした。
『生ある限りルソンへ』 磯崎隆子著 1984
<敗戦直後の捕虜収容所にて>
私達のテントに朝鮮人女性が二人いた。日本軍の慰安婦をしていたと言う。早い時期に捕虜になったので血色もよく、服装も派手で可愛い顔をしていた。
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