<
>>トップページ
スマラン事件(白馬事件)


スマラン事件(白馬事件)から見た軍慰安婦の強制連行と日本軍の基本的態度

戦争中日本軍将校がオランダ人を強制連行し慰安婦にしたことで有名なスマラン事件(白馬事件)。2007年6月日本の右派国会議員らが掲 載した広告「FACTS」でも触れられている。この事件はオランダ軍により裁かれたため証拠資料があり、日本軍による従軍慰安婦強制連行 の明確な証拠である。ではその内容は?

この事件は吉見義明が早期にオランダ軍事法廷の裁判記録を発見し、その代表的な著書「従軍慰安婦」(岩波新書)でくわしく紹介している。また雑誌「 週刊金曜日」(2007年6月22日号)でもオランダ軍事法廷の裁判記録が紹介されており、 英語版がここ(http://www.kinyobi.co.jp/MiscPages/comfort_women)で読める。ここでは、その概要を示し、証拠である裁判資料も少しを紹介しよう。

(1)事件の概要
1944年日本軍占領中のインドネシア、ジャワ島で日本軍若手将校により抑留所にいたオランダ人女性に対して行われた強制売春・強姦事件である。
南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊がオランダ人女性36人をスマランにあった慰安所4カ所に強制連行し慰安婦とした。戦後オランダ臨時軍事法廷でBC戦犯と して裁かれ、軍人・業者らに有罪が宣告されている。

当時スマランには既に慰安所があったが性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には 自由意思の者だけ雇うようにという軍司令部の指示を無視した。担当将校・警察・業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所 から18才から28才の合計36人のオランダ人女性を強制的に集め、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。 1944年3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。しかし自分の娘を連れ去ら れたオランダ人リーダーの訴えにより、陸軍省から捕虜調査に来た小田島董大佐の勧告により軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。しかし、日 本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかったし(広告「FACTS」の決定的な間違い)、首謀者である能崎清次少将はその後昇進し、敗戦直後に は勲一等瑞宝章を受勲している。

終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、 軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される大久保朝 雄中佐は戦後、日本に帰っていたが裁判を逃れるため割腹自殺した。

bc戦犯                 
(2)証拠となる裁判資料
証人尋問調書1:当時44才のアンバラワ抑留所代表者の証言
1946年6月24日ハーグにて
1944年2月26日、3人の日本人が抑留所に現れ、自分たちは憲兵隊の将校であると言いました。私は彼らから1枚の名簿を渡されました。そこにはアンバラ ワの郊外の事務所で仕事をすることになった11人の婦人と若い女性の名前がでており、半時間以内に出発の準備をせよというのでした。(略)これはでき ない相談だと私たちは答えました。(略)
集合した私たちの激しい抗議の中を若い女性達は数時間後には出発しました。ここで付言しておきたいのは、選び出された女性達は2人を例外として「世間 づれした」水商売のタイプではなかったという事です。(慰安婦の強制連行の終了)

1944年4月末、日本軍の大佐(慰安所を閉鎖させた小田島董大佐)が副官を伴って抑留所に現れました。私たちはすぐに若い女性についての要望を述べました。 大佐はこの事情をまったく知らないことが明らかでした。彼は家族ができるだけ早く娘達のところにいけるようにすると、力を込めて約束しました。(略)

証人尋問調書2:当時25才の連行された女性の証言
1948年8月27日バタビアにて
1944年2月23日頃、私は妹3人とアンバラワ第4抑留所に収容されていました。代表から連絡があり1時間以内に抑留所を出なければならないとい うのでした。抑留所の側に日本人2人をのせたバスが駐車していました。(略)私たちを乗せたバスはカナリラーンにある建物の方へ走ったそうです。そこに は既に多数の既婚・未婚の女性が集められていました。(略)
女性達の中から私を含む5人が選び出されてチャンディにある大きな家に連れて行かれました。これは「フタバシュウ(双葉荘)」 という娼楼でした。そこはまわりに板塀を巡らした大きな屋敷で、極めて小さい門がついていました。1944年3月1日、日本人がきてどの浴室にも洗 浄器を2つ取り付けました。私たちは日本人客の相手をしなければならないと言われました。
それから暫くしてある日本人客が私の所に現れました。その日本人は私を陵辱することを命じられてきたと言い、私は拒絶しました。彼は私に暴力を 振るい、椅子で殴りました。サックを使いました。(略)

1944年3月3日頃、長い白い背広を着た日本人が看護婦を連れてきました。(略)看護婦がズボンを脱いで寝台に横になるように指示をし、背広 姿の日本人は私の陰部に検査鏡を差し込みましたがそれはひどい痛みを伴いました。(略)翌日も出血が続き、経営者は私を病院に連れて行き1ヶ月の 休暇を貰いました。この1ヶ月の休養が終わると、私はまたもや客を取るように強制されました。(略)私は多数の日本人客から虐待されました。

--------------------------------------------------------------------------------
この白馬事件は、多くの証拠が存在している事件である。

それゆえに、言い逃れがまったく不可能だと言える。

日本側の処置などが、記録に残り、被害者が白人だったので、関係者が戦犯に問われて裁判記録が残ってしまったことが今では決 定的な証拠になっており、「証拠がない」との居直る事もできない。

インドネシアでのオランダ人慰安婦についてはオランダ政府の調査報告書が出ており、白人慰安婦は総数200から300人。(報告書 では「自発的」な慰安婦の存在も認めているが、それはごくわずか)

問題なのは、、「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず 軍が軍記違反として処罰しなかった点であり、首謀者の 能崎清次少将は その後昇進さえしている。

罰則が無く昇進したと言う所に軍の方針としての慰安婦の強制連行が明らかになっているのだ。

「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけで、軍としては何の処分を行わなかった。日本軍内では だれも軍法会議にかけられていない。

陸軍刑法では「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス。」

とあり、慰安婦の強制連行・集団強姦は、もちろん日本軍の軍規に照らしても大きな罪だったが、まったく処分の対象としなかった所に、慰安婦の 強制連行に対する軍の考え方が示されているのである。
この事件に限らず、日本軍には、強姦や住民虐待事件は頻発していたにもかかわらず、処分した実例は非常に少ない。罰則はあっても実際 上は、お咎めなしだったと言える。ここにお得意の本音と建前の構造が見てとれる。強制連行・集団強姦は、黙認されていた。軍人や軍に雇われた ならずものが強制する売春があちこちで黙認され、それが慰安婦問題の真実の姿である。

すでに述べて来た事だが、「軍慰安婦の徴集は、多くが〔詐欺的手段〕や〔暴力的強制〕によってなされて来たのであり、この事件はその典型であると言 える。



<
>>トップページ
inserted by FC2 system