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軍による「慰安所」管理は紛れもない事実


軍による「慰安所」管理は紛れもない事実

海を超える100年の記憶 李 修京 編 
松原 勝 軍による「慰安所」管理は紛れもない事実P109〜127 より 

― そこに軍属として派遣されたそうですが、どのような仕事をなさっていたのですか。

松原 第四海軍施設部軍属として1942年から1944年までいました。この施設部というのは、港湾、飛行場、道路や建物の 建設など、土木工事が主な仕事です。広大な海域に点在する重要な島々に対応するため、職員は工員を主体にかなりいましたね。そのほか 「慰安婦」の管理、それから日本から送られてきた囚人700人くらい、これも管理していたんですよ。だから人とか物を第四海軍施設部が全部管理 していたんですね。私は当時、その中の物品係に配属されていたんです。

― その夏島に「慰安所」があったのですね。

松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。(夏島の地図を指し示しながら)このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ 出て左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。

― 慰安所の経営は民間がやっていたので、日本軍は関与していないという人がいます。

松原 「南國寮出入證」にある、この赤い二本の破線は海軍の印ですし、「萩原部隊」って書いてあるでしょ。萩原勘一と いう海軍大佐が部隊長でね、印鑑も捺してある。軍が管理していたのは紛れもない事実ですよ。

― これを持っていないと中に入ることはできないわけですね。

松原 できませんね。入り口には守衛がいましてね。出入證をみせ、慰安所の建物の中に料金所があって、そこでたしか一円だったかな?払うんです。

━  中略 ━


  売春の意思などもなき慰安婦ら拒否すれば殺される軍命になく

源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊ま りを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされ てきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病 院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂 けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許し ていろいろなことを話してくれました。

トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人 には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。

 騙されたと涙にくれし慰安婦ら冷たき風は今も止まらずに

結局、「慰安婦」の方たちは、生きて国へ帰っても、温かく迎えられないんですよね。騙されて連れて行かれて、そういう仕事に就かされたのに、日本兵に 身を任せたということで、冷たい目で見られるわけです。だけどもう仕方なかったんですよね。戦地に連れて行かれて、そこでそういう仕事だということを言 われるわけですからね。逃げて帰るわけにはいかないですよね。特に島ですからね。だから嫌でも身を任せなければならなかったわけでね。

       ━ 中略 ━

― そういう商売、つまり娼婦だと思っておられたということですね。それは当時まだ赤線があったりということで、軍人たちの意識としては、「慰安所」に 通うことにあまり抵抗がなかったということでしょうか。

松原 抵抗どころか、兵士たちには、外出の時コンドームが渡されましたからね。

― 宿舎などで「慰安所」の話題が出たりしましたか。

松原 宿舎の人たちは、私が「慰安所」へ行っていることは知っていましたが、「慰安婦」の生い立ちがどうだとかいっさい話をしませんでしたね。

― では戦後はどうですか?フィリピンや中国などで苦労された方々もお知り合いにおられると思いますが、そういう話が出たことはありませんか。

松原 ありませんね。

― 「慰安婦」として性被害にあった方はもちろんですが、「慰安所」へ通った軍人たちにしても、やはりなかなかいい出せないことなのでしょうね。

松原 いいにくいでしょうね、私もそんなことはずっとしゃべられなかったですよ。だから「慰安婦」というのは、なかなか公にならない。

― 発言するのはさぞかし勇気がいったことでしょう。

松原 僕は丸裸で語っていますが、「慰安所に通ったよ」ってのは、性的なことだしね、実際言いにくいことですよ。

          ━ 中略 ━

それこそ出撃の前なんかはね、慰安所の前にずうっと列ができるわけですからね、本当は大勢の人が利用しているんですよね。だからそういう人たちが声を一 斉に挙げたらね、それはすごいですよ。でもみんな黙っちゃっている。

― そういう意味でも「慰安婦」の問題は解決が難しいわけですね。

松原 でも重要な証言も色々出ていますよね。鈴木良雄さんという人が女性国際戦犯法廷でこう証言しています。(「女性国際戦犯法廷の全記録T」第五巻、緑風出 版から)「あなたが会った慰安所での女性たちから、自分で好んできたのか、あるいは無理やり連れてこられたのか、そういった話を訊いたことはありましたか」 と質問され、「ありました。・・・略・・・朝鮮の方で日本名はミサオと言っておりました。・・・略・・・彼女は従軍看護婦になれるからということで応募し てきたところが、慰安所に押し込められてしまった。悲しくて悔しくて泣いた。どんなことをしても逃げて帰れるものなら帰りたいと、泣きながら話しました。 その時私ははじめて、好きでやっているのではない、強制的に連れてこられた人だということを認識しました」と。

        ━ 中略 ━

― 「慰安婦」など史実認識問題について発言なさるようになったのは、何かきっかけがあったのですか。

松原 「慰安所」に通ったというようなことはね、いいたくないことですよ。だけど公にすることへの抵抗より、「慰安婦」の方たちが僕に涙を流しながら 訴えたことを事実でないと言われた時にね、非常に怒りを覚えたわけですよ。

        ━ 中略 ━

 青春を奪い去られし「慰安婦」なり重ねつつ視るキムヨナの舞

― 今年(10月)の冬季オリンピックをご覧になりながら詠まれた歌ですね。

松原 キムヨナの非常に美しいピチピチとした銀盤の舞ですよね。あの時の「慰安婦」たちとちょうど同じ年頃ですよ。彼女たちにも、ああいう青春があった。い ったん失った青春は戻りませんからね。日本政府の責任は重いと思いますよ。

前線基地だったトラック島から出撃となれば、生還は期し難い。だから兵士たちは出撃前にコンドームを持って「慰安所」で今世の別れをするのです。

        ━ 中略 ━

100年前の8月、「韓国併合」によって言葉も名前も国ごと奪われた朝鮮の人々が、戦争の中でさらに人権を蹂躙された一つが「慰安婦」でしょ。彼女たちの流し た涙は虐げられた民族の涙でもあることを思えば、忘れることはできません。

   〜引用終わり〜


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勇気を出して事実を訴えておられる方の声を僕たちも知らなければ歴史観を誤ってしまう。
若くしてその青春を強制的に奪われた「慰安婦」を抹殺しようとしている言論は間違っています。
彼女達の苦悩を忘れることはできません。
それは紛れもない事実だからです。

〜資料製作BY徒然



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