刀を下げている日本人の巡査は怖かった
海を超える100年の記憶 李 修京 編
海を超える100年の記憶 李 修京 編
刀を下げている日本人の巡査は怖かった P51〜P61一部引用
〔姜日出さんの証言〕
◆ 儒教社会は男尊女卑だとか、またきょうだいの中でも女の子はあまり大事にされてなかったと聞きますが、姜日出さんはどうでしたか。
姜 甥と姪が私より年上なんだ。だから私はお母さんが年をとってからできた子ども。学校から帰ってきたら、いつもお母さ
んに膝枕してもらったよ。お母さんは、私が嫁に行く前に自分が死ぬかもしれないといつも心配していた。まだ幼いけど、結婚の相手を決めなくちゃといってい
たよ。お母さんもお兄さんやお姉さんもどこかに行ったら、おいしいものや私の服、帽子などいろんなものをよく買ってきて、私は大事にされたんだよ。
だから被害を受けた時も、解放(1945年8・15解放)された後の中国でも、泣いているばかり。大事にされた私が何でここにいるのと思って。お正月と
かになると家族のことを思い出して、知らないうちに涙がこぼれるんだ。
━ 略 ━
◆ 日本人や巡査を怒らせないようにと、常に気を遣っていたのですか。日本人を怖いと思っていましたか。
姜 日本人の巡査が家に来ると、縁側に座らせて干し柿、栗などを必ず差し出したよ。学校帰りに日本人
の巡査に会ったりすると、周囲の豆の畑とか綿の畑などに、すぐ隠れたよ。何もなくても巡査が刀を下げている姿は怖かった。見えたら隠れたよ。
━ 略 ━
◆ 着の身着のままで・・・
姜 当時着ていた洋服や靴は、体が大きくなると合わなくなったし、ぼろぼろになったよ。その後は裸足だった。
━ 略 ━
◆ 「慰安所」にいらっしゃった時、友達同士でどんなことを話し合っておられたのですか。
姜 お母さんに会いたい。お父さんに会いたい。故郷に帰りたい。その話ばかり。
◆ 友達と話し合う時、管理人とかいませんでしたか。
姜 管理人がいつもいたから、しゃべることはだめだった。ばれたりすると殴られたり、蹴られたり。
◆ 「慰安所」では日本語でしたか、朝鮮語でしたか。
姜 朝鮮語をしゃべると怪しまれて、殴られたり、蹴られたり。だからできれば日本語で。
◆ 「慰安所」の中には、逃げた人とか、自殺した人とかいましたか。
姜 いたよ。どんな人かはわからないけど。死んだらその事実は隠されてしまうんだ。いなくなっ
た人のことは、「他のところにいかせた」とかいって。
◆ ほかにどんな出来事がありましたか。
姜 日本で証言した時もこんな話はしたことがないけれど、日本軍人に殴られたこともあるよ。頭に怪我がまだ残
っている。(頭の傷を指し示しながら)傷跡があるだろう。頭の傷跡は未だにへこんでいる。当時、怪我したところの周りの髪の毛が抜けてしまい、生え
なかったね。傷口からは膿が出て綿などで応急手当はしたけれど、その軍人に暴力をふるわれて、頭に怪我をして、指もねじられて。(両掌を差し出しなが
ら)両手が違うだろう。ドアの方に突き飛ばされて、頭に怪我をしたんだ。血だらけで、腫れて。でも薬もなかった。まだ解放の前だったから。しばらくし
て解放になっても、それでも薬がなく、日本人も朝鮮人もみんな故郷に帰った。その中に、私と同じ姜の苗字を使った人がいて、洞窟みたいなところに隠れ
ていた私にお粥も作ってくれたし、もち米で作ったご飯をつぶしたものを頭の怪我につけて治療してくれたんだ。でもなかなか治らなかったよ。
━ 略 ━
◆ 解放後はどんな生活をなさったのですか。
姜 解放されても生きる術がないから、ある村の農家に入って畑仕事をしたり、ご飯をもらったりした。
裸足で仕事をしているし、中国の東北はすごく寒いから、足の爪が剥がれたりして、夏は靴がなくて裸足でいたよ。若い女が裸足で、服がぼろぼろ
になって穴ができても、重ねてあてて縫う布がなかったね。ぼろぼろの格好のままで働いたりした。若かったし、知らない人を訪ねて、服がない、服くださ
いとかいえないからね。
◆ 辛かったときに噛みしめていた言葉などはありましたか。
姜 いつ、どんな時になったら故郷に帰れるんだろう。毎日そういったことを考えていた・・・。中国には、私の子供
がいたけど(解放後のこと)、それでも故郷に帰りたいと思っていた。
お母さん、お父さんの愛は忘れられないよ。幼いころ両親から与えられた愛情とか優しさとか、きょうだいからも愛されたから、すごく自分
には心の中に残っている・・・。一度も殴られたこともなかった・・・。そんなことを考えると胸が苦しくなる・・・。
◆ 名乗りを上げるのは、すごく勇気がいったと思うのですが。どんな想いで、または何かきっかけがあったのでしょうか。
姜 中国にいたときもいいたくなかったし、いわなかった。初めていおうとした時、どうしようかと悩んだし、本当に
こうすべきなのかと悩んだ。中国では、だれもこんなこと知らなかった。今は韓国に住んでいて、こういう形で、被害を明かしたり、テレビとか出ているから、
息子も知っているだろう。
私が被害を明かしたのは、やはり国のために、後世代の若い人のため・・・。もし戦争になったら、日本人や韓国人の若い人たちが死んでいくだろうから、
そういうことをしないようにしてほしい。飢えや病気、死ぬにはそれぞれの形があるけれど、戦争で人が死ぬことはしないでほしい。私が死んだ後、戦争をし
ないように。そういう想いなんだよ。日本が謝罪をした上に平和的な関係を作っていってほしい。
日本人はアジアすべてを侵略したから、お金がたくさんあるわけよ。アジア全域の砂金とか、金とか持っているから金持ちなの。だから日本はお金がなくて賠償
しないんじゃなくて、そのお金でまた戦争しようとするんじゃないのか。日本人が謝罪しない、賠償しない原因はここにある・・・。日本人の政府は私たちが死ぬ
ことを待っている。私たちが死んだら日本人はまた来るよ。日本の政府は戦争が好きなんだ。だから、戦争してほしくないから、明かすことを決めたんだよ。
◆ 明かしたことで、傷ついたこともあったのではありませんか。
姜 証言すると、当時のこととか、家族のこととか、思い出したりすることが辛い。両親が出る夢を見たら、次の日は体調を崩
してしまう。頭痛がしたり・・・。最近は体調が悪いよ。薬を飲んだり、注射を打ってもらったりしてるよ。
◆ 姜日出さんの願いというのは。
姜 これは伝えてほしい。私の要求は、アジアのこれからの世代に戦争が起きないこと。私たちは死ぬけど、戦
争が無くなってほしい。韓国と日本は仲良くしてほしいんだ。今の若い世代は大丈夫だけど、その子どもの世代にまた戦争になるかもしれない。
私は戦争で被害を受けた。だけど、日本が謝罪して賠償してもらったら、もうこの関係はなくなる。ちゃんとした形で、謝罪する、賠償するということが大
事だ。仲良く、戦争しないでほしい。
韓国人と日本人はこんなに頭が良い人たちが多いし、顔も似ているし、協力したらどんなに良くなるか。それが私の願いなんだよ。
〜引用終わり
<感想>
戦争で強制的に従軍慰安婦として犠牲になられたのにもかかわらず、日本がちゃんと謝罪し賠償してくれるならこの関係は終わり仲良くなってほ
しいと訴える姜さんの心の広さを感じました。
彼女たちの苦悩を日本国民がしっかりと受け止め悔い改めたとき歴史的な悲しい物語に隠された闇を開放することができるのだと思います。
日韓が一つになることを願って。
〜資料製作BY徒然