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宋神道さん、その心の叫び


宋さんは「漲る生命力」で生き抜き、証言活動に誇り

慰安婦の方々の証言につじつまのあわない部分があることに対して、 長い期間、宋神道さんに寄り添って来られた「在日の慰安婦裁判を支える会」の梁澄子さんの証言を紹介したいと思います。

『海を越える一〇〇年の記憶―日韓朝の過去清算と争いのない明日のために』p99〜p102(一部引用)
 

梁澄子(ヤン・チンジャ)さん
「朝鮮女性史読書会」を経て「従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク」を立ち上げる。
宋神道さんとの出会いから、「在日の慰安婦裁判を支える会」の発足にかかわり、活動を続けている。
「戦争と女性の人権博物館(WHR)日本建設委員会」代表。通訳・翻訳家。一橋大学講師。共著に『海を渡った朝鮮人海女』 (新宿書房)、『もっと知りたい、「慰安婦問題」』(明石書店)、訳書に尹美香『二〇年間の水曜日』(東方出版)などがある。東京在住。在日二世。

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複雑性PTSDに被害はいかに深刻か

−その尋問調書によると、何度聞いても避けてしゃべらない内容があるそうですね。たとえば、まだ初潮もなかった時に強かんされたことなど初期の辛かっ たことは話さない。

 私たちもなぜ語ってくれないのか分からなかったのだけど、アメリカの精神医学者ジョディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』(みすず書房、一 九九六年刊)に、ベトナム帰還兵の臨床例を基にしているPTSDの診断基準は、阪神の大地震など一過性の強烈な被害にあった人には当てはまるけれど、児童虐 待とかDVとか長期にわたり監禁され繰り返し被害を受けた人の症状を分析するには十分ではなく、複雑性PTSDという別の診断基準を設けるべきだと書かれて いたんです。それみていたら宋さんにぴったりだったんです。最もひどい症状は、狭窄だと書いてあったんですね。狭窄というのは意識を狭める、記憶なども狭 めちゃう、だから一過性の記憶喪失もそれに入る。

−だから最初の記憶が出てこないのですね。

 そうです。加害者への依存というのも理解できる。たとえば被害者なのに、加害者を通して世の中をみてしまう。これこそが一番深い被害だと 思うんです。宋さんの場合は七年間も慰安所に監禁され、日本軍を通して外の世界を知るわけです。終戦後、兵士に日本へ連れてこられた挙げ句、棄てら れた時に初めて自殺を考え、列車から飛び降りているんですが、それはやっぱり唯一の世界との窓口だった加害者に棄てられたことのショックだと思うんです よね。まさに複雑性PTSD症状なんじゃないかなと。

−なぜこれほど痛めつけられた日本人について日本へ渡ってきたのでしょうか。

 もう国へは帰れないという気持ちもあったでしょうし、戦争が終わった時に、突然軍人はみんないなくなっちゃうわけですから、どうすればいいんだ ろうって、途方に暮れていて、そこに兵士が訪ねてきて一緒に日本へ行こうと誘われたら、一縷の望みを託してついていく心理状態ですよね。

−心身ともに絡め取られ、完全に従属させられていたということですね。

 それまでみてきた被害者の方たちは、証言をしながらわぁと泣く方が多かったんですが、宋さんは泣かないし、一番何が辛かったかと訊いても、日本語 が分からず、短剣を下げた軍人に殺されるんじゃないかと思って恐かったことと、弾が飛んでくる中で軍人の相手をしている時に、弾に当たって死ぬんじゃないか と思ったことが辛かったって。
 初めて宋さんに会った時も、いかに自分が軍人たちをうまくあしらったかという話をすごく自慢げにしたの。女はそうやって自分の身体を大事にしなくちゃい けないんだ。男をとにかく早くすませて自分の身体を楽にしてやっていくってことを、女は覚えなくちゃいけないんだぞというふうに教えてくれたんです。
 他の人とのこの違いは何だろうって、最初は分からなかったんだけど、それは漲る生命力だったんですよね。聞けば聞くほどそうなの。でも、それはた ぶん生き残った人たちには皆あったものだと思いますよ。それがないと、なかなか生き延びられなかったと思う。

−「漲る生命力」ですか。

 クレゾールを飲んで自殺した人と同じように、宋さんも辛くて嫌なんだけど、嫌だという気持ちのほうを殺さないと生きていけない。自殺した人は、嫌だって気持ちよりも肉体的な生命を殺したわけだけど、宋さんは生きるために、嫌がっている心を殺すわけですよね。だから最初の頃の一番辛かった記憶がない。それは後半の四年くらいの間に、前半三年くらいの自分の辛いという気持ちを徹底的に殺したからだと思います。そうしないと生きていけない。だから最初の三年に関しては、他人の話はするけど自分のことはいわない。地名とか軍隊の名前とかはよく知っているけど、具体的に自分の一番辛かったころは出てこない。
−子どもの記憶はどうなのでしょうか。

 そこがまたあいまい。そうとう辛い記憶だと思うし、女にとって忘れられない記憶のはずなんだけど、いつ何人産んだかということがいうごとに違って確定できない。
 ただ私は最初の子を産んだ直後の感覚を聞いて、すごく印象に残っているんです。産むまではお腹がでかいし、うっとうしいって感じだったけど、 産んだ子を横に寝かせてみたら、クスクス笑いがこみ上げて止まらなかったといったんですよ。その気持ちってよくわかるなぁって。

−母親としての至福の時ですよね。でも、すぐに子どもは他人に預けられてしまったとか。身を切られる思いだったでしょうね。

韓国にいる慰安婦だったハルモニたちも、子どもがいる人は少ないんです。

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つじつまがあわないからこの証言は嘘だ、と言えない現実があることを知り、また愕然としました。
もっとひとりひとりの心に寄り添わなくてはならない、と感じました。

そして生き残って証言している人達は心を殺さなくては生きて行けなかった、
ということ、このことも知らなくてはならないです。
そして、治癒されることのない心を抱えたまま亡くなった方々がどれだけたくさんいるのだろうか。

そういう方々は今この時代を生きる私たちを見てどう思っているのだろうか。

日本が抱えている問題は「真剣に向き合えていないこと」ではないだろうか、と思わされました。






『海を越える一〇〇年の記憶―日韓朝の過去清算と争いのない明日のために』p102〜p105(一部引用)

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「すっかり垢抜けたババァ」に変わった

−先ほど話しに出た映画の製作に至った経緯は……。

 裁判は一〇年間だったんですけど、後半の五年間の宋さんを撮ったビデオが五〇本あったんですよ。それを何らかの形でまとめようという話になっ て、知り合いの安海龍監督に渡したんです。すると彼が観てあんまりおもしろいから映画にしようって。

−裁判後半五年目から……、それはなぜでしょう。

最初の頃の宋さんってすごく「獰猛」って表現が合う、針の穴も入らないくらいの鎧に身を固めている人で、あの頃の映像を人に観せたいなと思う んだけど、前半の私には撮る心の余裕がなかった。宋さんって鋭く洞察したことを独特の表現力で語るので、撮っておかないと後悔するなって考え始めたとい うか、余裕ができたのが五年目頃。今思うと必然的なポイントだったんで、あそこからでないと私は撮れなかったんだなって。

−なぜゆとりが出てきたのでしょうか。

 最初に撮った日は、宋さんがいくつかの記念的な発言をしてるんです。「お前たちを、支える会を一番信用してる」って。「信用」って言葉は宋さ んの辞書にはないんだろうと思っていたから驚いて。人にだまされて人を信用できなくなっている人たちは、宋さんもそうでしたけど、親切にしてもらったこと がないので、自分のために裁判やるという人たちが寄ってくると、まず疑う。
 以前は、宋さんが「おめえらに会ったためにこんなざまだ。苦労しているのはおめえらのせいだ」って私たちをいつも責めて……。やるやらないって何度 も迷った宋さんが、最終的にはやるといったから始めたんで、私たちの中にはやめるといってくれればいいなって思っていた人も本当にいるし、私なん かも実をいうとそっちの口だったんですけどね。「あぁ本当にやるのかっ!」みたいなね。

−疑心暗鬼の宋さんと付き合うのも、裁判を支えるのも相当な御苦労があったことでしょう。

 それまで普通の生活をしていた人たちが、裁判ってどういうふうにやるんだろうってところから始まったわけです。今でこそ周りの理解があり、子ども も親もみんな協力的だけど、最初のころはいったい何を始めたんだ?いったい何をしたいんだ?って。軋轢とかもあって。それにその頃の宋さんは人間不信の塊 だったわけですからね。何が大変って宋さん自身と付き合うのが大変で、何しろやめたかったですよね、始めた頃は。何で始めちゃったんだろうって後悔の日 々。外では「審理を尽くして」と主張しながら、ともかく早く終わってほしかった。本当に辛かった。
 それが五年くらいやったら、面白いなって。色々なことを含めて、大変さよりも面白さが勝ってきたのは、始めて五年くらい経ってからだった。

−面白いと感じるようになられたとは?

 宋さんもそのビデオを撮った日に「裁判やってよかった、おもしれぇ」っていったんですよ。それと「支える会に会ってちっとはオレも人間 らしくなった。すっかり垢抜けたババァになっちまったよ」っていって、ガハハッって笑ったんですよ。「すっかり垢抜けたババァ」って素晴らしいでし ょう?こういう言葉を吐けるのって宋さんしかいない。それ以上に「人間らしくなった」といういい方が痛くて。宋さん自身も、その時点で変わり始めた 自分を認識していたということですよね。今までの自分は人間じゃなかった、人間らしい生活ができてなかったということを一方でいってるわけじゃない ですか、その言葉って。だから幾重にも悲しい言葉でもあり、うれしい言葉でもあり、すごく複雑ですよね、その言葉に対する思いって。それをいったのが 全部一九九八年四月なんですよ。偶然というより必然だったんですよね。その日カメラを構えたのが。

−支える会も変わってきたとおっしゃいましたが。

 この日は、私の運動に対する姿勢でも意味をもった日で、これは映画の中でも出てくるのですけど、私たちはいつものように「宋さん、これから裁判どうするの?」とか、国民基金というのが当時出ていて、「国民基金をもらう?もらわない?」「どうする?どうする?」って宋さんにずいぶん色々訊いたんですよ。すると、「オレは弾の中をくぐってきた人間だから怖いものなんか何にもないんだ。お前らが支える会をやってきて、『支える会』ってオレを支えるためにできたんだろう。やってきて疲れたからやめるっていうんだったら、早いとこやめるし、一緒にやるっていう覚悟があるならやればいいんだし、これはお前たちの問題なんだ」って。
−こちらの気持ちを見透かしたのですね。

 支える会として自分たちも決定をし、その責任を負っていかなければならないんだってことを宋さんに教えられました。つまり運動に対する姿勢を問 い直されたのもその日なんです。また、この言葉には別の側面があって、宋さんは決定を迫られることを実は困っていたんですね。でも、おれは決められないっ て素直にいうような人じゃないんで、お前たちの問題だと知能的にやり返したんですよ。そう賽子を投げられて、決定を迫られて、宋さんは辛かったんだなとよ く分かった。宋さんはもともと自分自身の決定を全然信じてないんですよね。だまされて「慰安婦」にされて、だまされて日本に来ているので。人を信じないって いうけど、あれはやっぱり自分を信じてないんだと思います。自分を信じられない人は他人も信じることができない。つまり信頼関係の構築自体が無理なんですよ ね。でも当時の私たちはそこらへんが分からないから、今まで自己決定権を奪われてきた宋さんに自己決定権を与えようと、何でも決めてもらおうとした。
一方では宋さんに決めてもらわないと、後々私たちが責められるからというのもあって、「これ宋さん決めたよね」と、相当しつこくやっていたんですよ。宋さん のいい方は威勢がいいから、なかなか分からないんだけど、実は決められないんだってことが分かるのも五年、六年後ですよね。

−「獰猛で人間不信の塊だった」という宋さんが、なぜ変わっていったのでしょうか。

 裁判は世論喚起をして、本人たちが望んでいる謝罪と賠償をかちとるのが目的でした。目的は達成できなかったけれども、裁判が終わった時に、「オレ の心は負けていない」って、そういうふうに宋さんにいわしめるというか、そういう変化があったのは、証言集会に来て共感してくれる人、裁判を支援 してくれる人がこんなにたくさんいて、信じてもいい人たちがいると分かったからだと思います。それが彼女を大きく変えた。そういうことが起きると いうことは、私たちには予測できないことでした。

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「これはお前たちの問題なんだ」という宋さんの言葉。

何か自分に言われているような気がします。

誰が言ったからとか、あの人はどうだとか、そういうのってやっぱり言い訳に過ぎなくて、 自分自身を何だか意見のない、意思のないぼやぼやっとした存在にしてしまう。
気がつけばすぐに責任を転嫁しようとしたり、見て見ないふりをしようとする。
自己決定権を迫られて困る宋さんの気持ちに触れてみて、 責任を持つということの意味を改めて考えさせられます。
どれくらい自分の問題として考えることができるだろうか。
自分はこれを自己正当化との闘いと捉えています。
日本の罪と向き合うことは、自分自身の罪と向き合うこと。
そうすることでしか、この問題に向き合える方法が思いつきません。


海を越える一〇〇年の記憶―日韓朝の過去清算と争いのない明日のために/著者不明




〜資料製作BYサムライソウル



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