>>トップページ
知りたくない人は読まない方がいい/日本軍の虐殺行為



◆ヤフー知恵袋に

「太平洋戦争中、日本軍による大虐殺ってあったんですか?」という疑問が投げかけられました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1423886934
作者によると

「日本の歴史101の謎」(小和田哲男著)という本に南京大虐殺はあったと書かれてあります。
私は南京大虐殺については、なかったと主張している人の本しか読んだことなかったので、この著者の意見は大変興味深かったです。
だから、「あぁ、なるほどねぇ〜」という感じに読んでいました。

しかし、その本にはこうも書かれていました。
「今でも、アジア各地には日本人を見ると、その時の恐怖を思い出し、泣きだす老婆がたくさんいるという。蛮行は南京だけではなかったのである」

そんな話、私は今まで聞いたことなかったんですが、本当なんですか?
あったとしたら、それはいつ、どこの国で、どれくらいの人が虐殺されたんですか?

◆この疑問に対してベストアンサーとして選ばれたのが、以下の内容です。

昭和19年末〜20年 ルソン島
振武集団の藤重支隊(偽名称・藤兵団)に属した人の記述によると
ゲリラと疑わしい住民の意図的かつ大規模な虐殺が実行されたそうです。
「疑わしい」とは、日本軍の近くにいる者、ということです。

「できるだけ多数を、一ヶ所に集め一挙に殺せ」との指示があったことなど、
「暴虐の限りをつくした」という部隊の行為を具体的に記して
自分たちも潔白ではないと述べています。

>リパ地区H憲兵の野太い声が、耳の底にまだ残っている。
>「敵が上陸するまで強姦するな。上陸したらかまわんからやれ。
>ただし、やった女は必ず殺してしまえ。」
(これは米軍のしわざと宣伝するためでしょうか。)

(「ルソン死闘記」友清高志・著 講談社による)

この一書は個人の従軍体験記であり住民虐殺の総括や統計数字はありません。

しかし「敗残兵に対する住民のリンチはすさまじい」と山本七平氏が述べ
BC級戦犯裁判にも影響したフィリピン人の憎悪はこんなところから来たか、
と思わせるものがあります。

こういう事件に関する番組もたまにテレビでやっていますね。
虐殺被害者の家族や対日協力者への制裁の模様など
当時の体験者自身がはっきりと取材に応えたりもしています。
そのたび一部の人がうそだ捏造だマスコミは反日だと愉しげに主張しますが、 まあ情報の取捨選択は各人の責任ということで。


◆なかなかの卓見ですね。

当時の戦記、日記本には、この手の話がイロイロ書いてあります。

フィリピンについては、元軍人の書いた参考文献として

 『悲劇の将軍』 『戦記バタアン半島』 『落日のマニラ』 『最前線爆雷製造部隊』  『ルソン戦とフィリピン人』 『比島軍医戦記』 『山中放浪』 『虜人日記』 『ミンダナオ島敗戦記』 『敗兵』 『回想のフィリピン戦線』 『ある陸軍予備士 官の手記』 『海軍報道戦記』 『セレベス戦記』 『ぼくの大東亜戦争』 『消灯ラッパと兵隊』 『泣き虫軍医物語』 『南海の青春』 『証言・太平洋戦争』  『フィリピン敗走記』―一兵士の見たルソン戦の真実 ・・・などがあります。
『ルソン死闘記』(友清高志・著) を含めて、何冊か読んでおけば、「日本軍が当時どのような事をしたのか?」理解できると思います。

             <マニラの戦犯裁判>

◆1945年、10月8日。マニラの軍事法廷で山下奉文(ともゆき)大将に対する軍事裁判が始まりました。「マレーの虎」と恐れられた山下大将は、結局は10万人虐殺の責任をとらされ、有罪判決を受けるのですが、そのさい286人の証人が法廷で、日本軍の暴虐、マニラでの虐殺行為を証言しました。 下の資料(1)(2)のような事がなされた訳です。

この裁判自体は、疑問がいくつかあるのですが、現地フィリピンの国民はこの裁判を「正義の勝利」として歓迎しました。
( 『最新資 料を元に徹底検証する昭和20年1945年』藤原影、栗屋憲太郎、吉田祐編集より)
これは見逃せないことです。
彼らの脳裏には、日本軍による蛮行が深く刻まれていました。
(参考; 『将軍の裁判』 ローレンス・テーラー著、 『朝日新聞1945 、12/9号』

<資料(1)>
1945年9月16日米軍調査報告が「悲しく醜き現実」と題して、北海道新聞に掲載されていました。
「軍医将校が活体解剖の実物展覧のため捕虜を使った」
「婦女子30名、男子27名、牧師1名を突き殺し次いで生きているものも死体と共に積み重ねこれを突き刺した」
「兵士が小集団をなし各部屋に入り懐中電灯で婦女子(14歳の娘まで)を運びだし・・・娘たちは終始祈り、母親達は娘達を守ろうとその身を投げ出した」
・・・・と言う


<資料(2)>
日野原重明 ━  1911年(明治44年)生。医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院理事長。
http://www.47news.jp/47top ics/e/157613.php 

日野原重明━監修「新老人の会」編
『歌われたのは軍歌ではなく、心の歌  語り残す戦争体験』新日本出版社
P79  怒りと嘆きの底から   夏地弥生子


・・・戦争が終わり、それから幾日たった頃だったか。いとこ達が遠い戦地から帰って来た。負け戦で命があって無事帰還したと いうので、私達親戚は2人の従兄弟に「ご苦労さん会」を開くことにした。

・・・・・・(中略)・・・・

私は、正義のため、祖国のため、遠い戦地でさぞご苦労だっただろうと、いろいろの手柄話から察して聞いていた。
その内、酔いが回ってきた従兄弟の一人は、まるで戦争に勝って来た勇者のような素振りになってきた。

いかにして敵地を襲ったか、数知れぬ敵をやっつけたか、そんな話になってきた。・・・・

(中略)・・・・

(フィリピン戦線で)そのマッカーサーが一時、撤退したときのことをBは得々としゃべりだしたものである。アメリカ兵の引き上げた後のフィリピンで、 日本兵は、残された者、兵士と民間人を襲ったのだ。
負傷して倒れているアメリカ兵の側に寄ると、何やら必死で命乞いをしているらしいその負傷者の頭上に、わざと大きな声で、「ワン、ツー 、スリー」と掛け声をかけ、運んで来た大きな石を何人がかりかで落とすというものだった。身動きできないアメリカ兵の傷ついた頭に向かって、日本兵は 次々と同じ方法で殺して行ったという。

「ワン、ツー、スリー」
その従兄弟は、歌を歌うように声を出してその所作をしてみせた。

聞いていた私達は、声を出す者もいなかった。みな同じ気持ちであったのだろう。驚き、呆れ、怪しみ、そいて悲しみからでもない、身体に身震 いが起こり、それは止むことがなかった。一人の叔父は蒼白となり壁を見つめたまま、もう一人の叔母は、それこそ口をあんぐりと開けて目をむいていた。

そして、中国から帰って来た今一人の従兄弟は、反抗する女達を、日本の兵士達はどんな野蛮な方法で辱めてきたかを、得々とした表情で語り始めていた。

従兄弟二人は、「帰還ご苦労会」でとんでもないお土産を、集まった親族たちに撒き散らかした。その信じられないような恐ろしい報告は、生々しく率直な ものだけに、聞くものはすごいショックを受けて、それに対して一言の言葉も挟む者はいなかった。
親族の中では、一番のもの知りといわれている叔父が、「戦争ちゅうもんは、そんなもんや」と、やっとこさで言ったのに
・・・・(中略)・・・・

私は幼かった頃から、中国人のことを「チャンコロ」と言って卑しめ、在日朝鮮人を訳もなく軽蔑し、その子供達を、日本人の子は苛めるのが当然のように思っていた。 それから、あの鬼畜米英の時代になった。


◆これに対して下のような意見もあります。

何をもって 大虐殺とするかが まず問題ですけど
基本的に 日本軍が民間人の大量虐殺を 意図的にやるようなことは
行ってません

市街戦で 巻き込まれた市民がいたり (フィリピンなど)
スパイ狩りがいきすぎて 無実の市民もまきこんだり (中国、シンガポールなど)
大戦末期に 交通網の破壊もあって 食糧難からの餓死者を出したり (ベトナムなど)

まあ 悪かったことはいろいろ 無くは無いです
ただ、泣き出す老婆がたくさん というのはどうだろ
本当に取材しての結論なのか 疑問は多い

中国の内戦や 台湾占領後の 国民党の振る舞いの方が よほど 非道だと思うけどね


だそうです。
私にとっては、上で述べて来たような全ての著作物と資料を無視した意見でしかないので、「日本軍が民間人の大量虐殺を 意図的にやるよう なことは行ってません」というような意見は、賛同できません。

しかし人々が何を支持するか?否か?は、結局はその人自身が決める事ですが。


<参考> 南京虐殺
http://blogs.yahoo.co.jp/rennrinoeda123/48513001.html


>>トップページ
inserted by FC2 system