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知りたくない人は読まない方がいい朝鮮人蔑視、抑圧・迫害



◆戦前の日本人は、かなりの人達が朝鮮人を蔑視し、抑圧・迫害していた。今日2CHのネット右翼・嫌韓論者達のように「ニンニク臭え〜朝鮮人め」「姦国」 などと言ってバカにするような人物が昔も多くいたのである。「バカでもチョン(朝鮮)でも」と言う言葉自体がそれを言い表している。
ある意味で、今日2チャンネルなどに棲息する嫌韓論者は、戦前の天皇の臣民・日本人の遺伝子を忠実に持つ人々なのである。

◆戦前日本の差別についてある人はこう書いている。
私の主人のお母さんは九州の出身なのですが、自分の父親と言う人が漁船の船長をしていたらしいのですが、その当時(終戦前)その漁船には朝鮮の人が乗組員とし て沢山いたそうです。
その朝鮮の方々と言うのは別に強制的に連れてこられたと言う訳ではなく、あくまでも仕事として出稼ぎに来ていたと言うようです。(賃金は極めて低か ったみたいですが)
しかしお義母さんが言うにはその当時の日本の雰囲気としては、“朝鮮人は人間じゃない”って言うのが当たり前って感じで、お義 母さん自身も朝鮮人を見かけると朝鮮人を馬鹿にするような歌を歌って囃し立てたり、中には石を投げたりする子供もいたそうです。
でも自分の親や周りの大人の人達はそれを見ていても止める事はなくそれを容認していたそうです。
朝鮮の人達は子供達にそういった事をされても、怒るわけでもなくただジッと黙っているだけだったそうです。
今でも義母さんはその当時の事を思い出すと「子供だからと言って何であんなことしたんだかね〜」と言って胸が痛いと言っています。


◆『柳寛順の青い空』の作者 早乙女勝元氏の見た朝鮮人虐待も強烈である。

P14 「私の心に残る朝鮮人」より
・・・敵国アメリカ・イギリスに至っては「鬼畜米英」で、その親玉などは「出てくりゃ、地獄の逆さ落とし」と歌ったものである。
朝鮮人は共に「挙国一致の聖戦」を戦う同胞のはずだったが、実際はそうではなく、ひどい差別と組織的いじめの元におかれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
やがて勤労動員が始まり、1944年の秋から隅田川沿岸の鉄工場に狩り出されたが、私はそこでも大勢の朝鮮人と労働を共にした。彼らは例外なく寒 風吹きすさぶ野外での仕事に明け暮れ、黄色のナッパ服姿で、腰のベルトがわりに荒縄を結んでいた。・・・・・・ ・・・・・・・・・
工場には私達学童に対して「日本をしょって立つ諸君」などと歯の浮くような口を聞く労務係りがいた。ところが朝鮮人徴用工には居 丈高となった。野球バットのようなパッチョク棒を持ち、なにかというと、
「この半島人め!」
「あめえらの一匹や二匹は、どうにでもなるんだ!」
と差別用語を口にし、ところかまわず殴打し、足蹴にした。・・・・・

リンチだった。・・・・
バッチョク棒の代わりに鉄のチェーンを手にした労務係の相手は、草色ナッパ服で腰に唐辛子の竹筒をつけた 男だった。
・・・・・・・
ぶしっぶしっと言う響きは、チェーンが肩の肉に食い込む音だ。
作業服は避けて、露出した皮膚がザクロのようにはじけていた。
・・・・・
労務係がこいつは給食をちょろまかそうとしたのだとののしったが、私はあまりのむごさに貧血を起こしそうになった。もし仮にそういう事があったとし ても、口で言えば分かるものを凶器でめった打ちにしたら、とんでもない事になりかねない。
「見やがれ、こいつはな」
と労務係は、・・・・言った。
「自分はたらふく食ったにもかかわらず、もう一回ありつこうとしたんだ。半島人のぶんざいでだ。その一回のめしにもありつけず、腹を 減らせて健気に働いているお前らがいるにもかかわらずだ」
私は、奥歯をガチガチならしていた。なるほど私達は弁当もちだが、たらふく食った者が、どうしてもう一回食おうという気になるのだろう。
「お前らだって、国の大事に殉ずる勤労報告隊員だ。こん畜生と思うだろ。憎かったらこれを貸してやる。さあ、やれ、やれ、思い切ってぶちのめせ。こ の意地汚ねえニンニク野朗を!」
その時、私は見た。血まみれ青年の上に、誰かもう一人の草色作業服が被いかぶさって、彼の身をかばい、必死で喚きだしたのを。さらにもう一人 が続いて、倒れている男は3重になった。その友情の熱さに私は息を呑み、圧倒される思いがしたものである。

言っておきたいが、この時代の日本人の全てが、この労務係りのように朝鮮の人を、蔑み、残酷な性質の犠牲にしていた訳では無い。
だが、良心的人達がいたとしても、この作者のように眼前に繰り広げられる地獄の光景に、息を呑み、呆然と立ちつくすしかなかった。なぜなら、当時の 警察にこれを訴えても、大日本帝国の警察が朝鮮人の味方をする事はなかったからである。日本に存在していた全ての良心の声を暴力的に封じ込め、軍による 専制がなされた1933年以来、その専横は次第に強まり、1941年の太平洋戦争の始まりとともに軍国主義の狂気が日本全土をおおっていた。かくして後に 司馬遼太郎が吐き捨てるように「昭和元年から20年まで話をずっとして・・・いまだに思う事はひとつです。あれは日本だったんだろうか?」(P208)と述 べたように、日本は悪霊が跋扈する時代を迎えていた。まさに悪盛んにして天に勝つ時代であった。


◆高崎宗司 『植民地朝鮮の日本人』 岩波新書 P.172より引用。

田中艸太郎 「植民地時代回顧」『わだつみのこえ』第93号 1991年
三九年(1939年)、元山中学の三年生であった田中艸太郎は、そのころから、日本人生徒の一部が朝鮮人生徒を侮辱したり乱暴を働いたりす るようになったと回想している。
四○年の夏、10人あまりの日本人生徒が竹刀や木刀をもって数人の朝鮮人生徒をさんざんに打ち据えていたのを止めた田中は、後日、鉄拳を加えられた。
田中は教員に暴力生徒の全員退学を要求したが、「教師たちはなるべく穏便に片づけようとし」、田中を脅した。
田中は後年、「植民地政策の害悪が、このように、一中学校の経営までゆがめてしまう事実」に注目している。

◆こうして、蔑視、迫害、抑圧があったからこそ、関東大震災時の朝鮮人虐殺(約6000人)がなされたりしたのである。

我々はこうした歴史の証言を完全に無視する訳には行かないのだ。


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