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大日本帝国軍の意味なく子供を殴る体質


◆テーマ:教科書では教えない日本の本当の歴史

      1、彼らは意味無く殴った・・・

子供の頃の話です。
小松左京の『戦争はなかった』と言うSFを読んでいると 「理由もなく、上級生や教師に殴られ・・・」 「殴られっぱなしの少年期をすご し・・・」 と書いてありました。
 野坂昭如の本にも 「上級生」「教師」「将校」 などに 「殴られ続けた・・」 と書かれていた。

 それで私は父親に聞きました。

「どうして戦前は理由もなく子供を殴っていたの?」

 父親はうつむいて何も言いませんでした。
彼は昨日まで「天皇バンザイ」と叫びながら子供を殴っていた教師達が、敗戦後、ニコやかに「民主主義バンザイ」と叫ぶその姿に痛く傷ついていました。

 同じ質問を叔父にすると叔父は苦虫を噛んだような顔で
「時代がそうだった。そう言う時代だった」と答えた。

まだ、小学生だった私にはこれ以上追求できませんでした。

ただ、
戦争の、
アマテラスの、
暗い情念の世界を感じていた。

そして「大人になったら、必ず追求しよう。」と決めていた・・・。

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この疑問に対する答えを一部与えてくれたのは
 『戦後の右翼勢力』 堀幸雄著でした。
以下 はじめに より

なぜ右翼に関心を持つのか。それは多分私の子供のころの生活体験と無関係では無いように思われる。
「時代があんな時代だった」と言ってしまえば、それまでかもしれない。しかし私が小学校へ上がって以来、耳にたこができるほど聞かされてき た天皇や神国日本、それから忠君愛国等等についての色々な話や体験を私はそう簡単に忘れる事はできない。おそらく私と同世代の人たちは、皆同 じ体験を持っているはずである。その時代私達の毎日は皇国賛美に明け暮れた日々だった。そして天皇や皇国の背後には不思議な事にいつも「神」が つきまとっていた。
天皇は現人神であり、天皇の日本支配は神勅によって与えられていた。私達はそれに対して、一片の疑問さえ口にする事は許されなかっ た。私達はなんと言う不幸な民族だったのだろうか。そして日中戦争が始まると、その天皇、皇国賛美は一層オクターブを高めた。神社への 参拝が学校行事として始まった。神社は鎮守神から軍神に変った。
もちろん当時、私がそのような思想動員の意味を理解していたわけではなかった。しかし天皇や皇国賛美を説教されるたびに、ぼんやりした疑惑は 次第に深まっていった。中学生になった時には、もはや教師たち、あるいは新聞、ラジオを通して流されてくる「神国日本」式の話は、信用できなくな っていた。多分それは素朴な合理主義にすぎなかったろう。教師や配属将校たちの言う戯言など恥ずかしくて聞いてはいられなかった。彼らにしてもそれを信 じていないのが本当ではなかったろうか。仕方なく喋っていたのではないかと思う。しかしそうでもなさそうな人も何人かはいた。信じていないなら、 恐らくあんな喋り方はしなかったろうから。ともかくこうして強制された天皇支配下の日本の非合理性は、苦痛以外の何ものでもなかった。「神国日本」を 典型的に演じたのはむろん軍人だったが、彼らの精神主義が高じてくるとそれは暴力に変わった。一体何の権利があって軍人は国民に暴力を振るうのか。 戦争のさなかだと言うのに、国民は味方からいじめ抜かれた。
━<中略>━
だが考えて見ればそれらは全て天皇に収斂されていた。天皇が全ての非合理性の根源であった。そしてその天皇制を国民に強要し、国民を痛め つけてきたのは、軍人を始めとする右翼的諸勢力であった。・・・・・・現人神とは何たる詭弁であろうか。そして、君側の奸を許す現人神とは何た る逆説だろう。私は神聖な天皇を吹聴するだけでなく、国民にそれを暴力的に押し付けてくる軍人や右翼に反感を持たざるを得なかった。


      2、悪盛んにして天に勝つ

ここには「殴る理由」が一部、理解されている。
「神国日本」を典型的に演じたのはむろん軍人だったが、彼らの精神主義が高じてくるとそれは暴力に変わった。一体何の権利 があって軍人は国民に暴力を振るうのか。戦争のさなかだと言うのに、国民は味方からいじめ抜かれた。

つまり、そう言う事だ。
大日本帝国において、多くの国民は被害者であった。
軍人や右翼はいばりちらし、暴力をふるい苛め抜いたのである。
もちろん被害者というものは加害者によういに転化するものではある。
かくして軍人はイバリちらしながら、国民を理由も無く殴り、
教師は生徒を理由もなく殴り、
先輩は後輩を理由もなく殴る
風習が蔓延し、
地獄が地上に顕現していたのである。

軍人達がかかる暴力体質を持っていたのは、自分自身が軍内において「たるんどる」などの理由によって意味な く殴られて来たからである。そういう伝統を持っていたのだ。
日本を愛する司馬遼太郎をして「昭和元年から20年まで話をずっとして・・・いまだに思う事はひとつです。あれは日 本だったんだろうか?」と語らせた日本軍であった。

そして1933年頃から1945年の敗戦までの間、日本軍は日本の支配者であった。
ゆえに傍若無人な事が通ると思い込んでいたのである。

まさに「悪盛んにして天に勝つ」とはこの事である。


              3、当時の体験談

ある人はこう書いている。
母から聞いた話では、「その当時は赤紙がくると行きたくなくて も行かないと家族がみんなから「非国民だ」と白い目で見られて住めなくなるから行かざるを得なかったとか、戦争反対を少しで も言うと赤だと言われて特高に捕まり獄死した人がたくさんいた。。。とか、本当は福岡に原爆が落ちるはずだったけど、その時福岡の 上空は雲で覆われていてアメリカ軍が雲のないところに落としたら長崎だった。」とかいろいろ聞きました。
終戦が近つ”くにつれて、田舎にまで軍の人が来て「鉄がたらない。」と言って各家にあったフライパンやら鉄に関連するものは全てもっていか れたということなんですが、それを見ていた私の叔父が「この戦争負けるな。」と言ったのを祖母が「そんなこと言ったら捕まるから絶対に外では言って はいけない。」と諭していたそうです。
特別攻撃隊(特攻)なんて生きて帰ってきたら恥とまで言われて人間爆弾を余儀なくされましたし、 昔の人たちは本当に気の毒だったと思います。
昔は自由なんて何一つなく、人権もなかった時代でしたが、今は本当にいい時代ですね。

この手の話は当時を生きていた人の多くから聞けるはずである。

韓国人は日本の敗戦を「光復」と呼んでいる。
光が復活したと言うのだ。
それは日本人にとっても同じ事である。

明治開国以来、坂本龍馬と彼を師と仰いだ自由民権論者達が求めていた権利をやっと国民は手に入れたのである。

光が回復したのだ。


                     4、軍隊内での私的制裁

日本軍の元祖・西郷隆盛がいみじくも示したように「敬天愛人」の思想を持って行動し、天が人を愛するように、日本軍が人を 愛する思想を持っていたならば、彼等は今日までも憎まれるような傷跡をアジアに残さなかったであろう。彼等自身がそのような者でなくても、そのよ うな人物に支配され、命令と統制を受けていたならば、軍内においても、日本国内においても、アジア全土においても、無意味に他人を殴ったりする風潮 は蔓延しなかったはずである。
一体、日本の軍人は何者であるがゆえに、国民を痛めつけ、子供を殴り、アジアの人達にビンタをお見舞いする権利があると思ったのか?
それは、言うまでも無い事だが、「アジアの盟主」と自惚れ、その盟主国の中でも、「天皇直属の神軍、皇軍である」と傲慢な想いに捉われたからである。
「アジアの解放」が聞いてあきれる。
植民地収奪戦にあけくれた欧米よりも、さらにその姿は醜悪であり、抑圧と欺瞞に満ちているのである。

日本軍はまず、新兵教育においてビンタで上官に絶対服従を叩きこんだ。

これに関しては多数の著作があるが、ここはゲゲゲの水木しげる大先生の著作から・・・

1937(昭和13)年の近衛首相の「東亜新秩序」の声明から水木しげる先生がラバウルに出発するまでがマンガで描かれています。本書の後半では新聞配 達員をクビになった水木先生に突然、召集令状がきて鳥取連隊に入隊するわけですが、そこから水木マンガでおなじみの初年兵教育と称する上等兵殿のビ ンタとの戦いが始まります。

mizuki.jpg
コミック昭和史〈第3巻〉日中全面戦争~太平洋戦争開始 (講談社文庫)
水木 しげる


水木大先生はこう言っている。

「(ミッドウェー海戦)その頃ぼくは毎日なぐられていた、のみこみが悪いというのか、平気という のか、気にしなかったのがいけなかった。毎日ビンタがさくれつした。」

「軍隊では畳と兵隊は叩けば叩くほどよくなるという信仰があり、ビンタは終わることがなかった。」

「軍隊で一番軍隊らしいのが分隊です。十人の中に分隊長がおり、その下に古兵(こへい)と称する上等兵がいます。これは普通カミサマといわれ、 初年兵をなぐるだけで靴下はもちろんフンドシまで洗濯させる者もいます。ぼくは分隊に新入りがこなかったため万年初年兵でした。古兵どのの無理難題に日 々苦しめられるのです。ぼくは今でも初年兵の頃の夢をみます。これほど情けなく苦しいものは世界にまずないでしょう。
(水木二等兵がこぶしを握りしめ歯を食いしばっている描写)」

軍隊内では私的制裁(ビンタ、鉄拳)が蔓延していたのである。
こうした習慣が日本全土に蔓延し、無意味に子供を殴る風潮が生まれたのである。
そして、それはアジア各国でもなされた。
日本国内において、理由も無く子供達を殴っていた日本の軍人達はアジア各国でも、各地の人達にビンタを張っては、憎まれていた。元 日本兵で上官から平手打ちを食らった体験談は枚挙に暇が無いが、それは占領地の民衆に対しても行われていた。そして、それは現地の人 にとっては日本人が考える以上に屈辱的なことだったのである。

第二次大戦当時、親日家であったインドネシアのモハマッド・ハッタ氏もこう述べている。

「大勢の人が私の事務所に来て、いとも簡単に人をひっぱたく日本軍の態度について、苦情を述べたてた。殴られ た者がかっとなって、短剣を抜いて殴った日本人の腹を突き刺すこともありうるという者もいた。この苦情に関連して、私は日本の軍事政府に、日本 軍の将兵が日本人とインドネシア人の習慣の違いに留意するべきだと強調した文章を作成した。日本人の習慣では殴ることは日常茶飯事である。 しかしインドネシア人にとっては、頭は人間の体で神聖な場所とみなされている。神聖とみなされている所を殴られると、かっとなって刀を抜いて刺すことも 起こりうる。そして、日本軍に対する憎しみが生まれる。したがって、インドネシアにいる日本軍に人間の頭部に対する一般の人たちの考え方をよく教えること が極めて重要である。」
(モハマッド・ハッタ 回想録 大谷正彦 訳 めこん P436から)


       5、バーンボーンの悲劇

                       ━ タイ国の場合 ━
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バンコクには、ルムピニー公園やその他の地域に、バンコクを守備する部隊と、ビルマ戦線に赴く日本 の部隊が点在し、駐屯していた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スリブォン通りには、軍人専用の赤球や、白木屋、白雲荘などの看板があがり、この他にも、下っ端の兵士用の慰安所などが 軒並み店を出していた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
威張り散らした気の短い軍人が、言葉も通じないのに「タイ人がなんだ!生意気だっ!」と息巻き、タイ人と殴り合いの喧嘩をおっぱじ め、いざこざが絶えなかった。
或る夕方・・・・一人のすらっとした将校を乗せたサームローが、僕の眼の前で停まった。将校はそのまま料金も払わずにスタスタと歩きだした。 そのとたんに、サームロー引きのおっさんが「お金、お金、まだサームロー代払ってない。サームロー代をくれ!」と大きな声で怒鳴りだした。不満顔 でじろりと一瞥した将校は、「何をわめいているのだっ!うるさいっ!このやろう!」と、一括したかと思ったその刹那、 あっという間に日本刀を抜き、 ガチーンと車輪の音が跳ね返る鈍い音と同時に、サームローのタイヤをスパッと切ってしまった。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・
これは僕が目撃したほんの一件に過ぎないのだが、日本軍が駐屯していた、ソンクラー、ナコーンスィータマラート、チュンボ ーン、ラノーン、バーンボーン、カーンチャナプリー、トンプリーなど、その他の地方でもいろんな問題を引き起こしていた。
 ともすれば、中国大陸と同様に勘違いしがちな日本軍部の規律はかなり乱れていた。威張りちらし、傲慢になりすぎた将兵が、「ここは俺達が 占領した領土だぞ!」と、人を小馬鹿にした顔で、「土人が何だ!土民の能無しが何だ!タイ人の馬鹿が何をつべこべぬかすか!」と言った調子 で、タイ人を馬鹿にした。大事なタイの風習、文化をも無視し、礼儀作法すら忘れ、平気で失礼な行為を示した。ひどいのは意味も訳も分からぬまま、手を 合わせて哀願するタイ人を捕まえて、ビシッとびんたをはつり、ゴツーンと頭を叩いたりした。それに罪もない嫌がるか 弱い女性を強引に強姦した事件などが続出した。この他にも、スパイ容疑で逮捕され、半殺しの目に合わされた者も大勢いた。しかし被害を受けたタイ人が 警察に駆け込み「助けてください」と訴え、救いを求めてもどうにもならなかった。
 タイは、日本に占領された占領地でも植民地でもなかったはずである。ちゃんとしたタイ国の憲法や法律が維持された独立国である。だが何故か、武 力の威力に威厳を張った憲兵隊や、軍部の圧力に押さえられていた。日本からがんじがらめに縛り上げられたタイ当局としては、穏便に話しを進める以外、何 とも手の施しようがなかった。被害にあった可哀想な人々はただ泣き寝入りするしかなかった。悪事を働いても、裁判も何の刑も受けずにすむ将校の振る 舞いは、日増しに悪くなり、目に余るものがあった

 特にひどかったのは、1942年(昭和17)12月18日に起こったバーンボーン事件だった。事件の発端は、一人のタイの坊 主が、捕虜に煙草をあげようとして、日本兵に「煙草をやっちゃいけない」と注意されたが、言葉が通じなかったために、捕虜に煙草 をやったのがきっかけだった。兵士は「このやろう」と怒鳴り、ドントゥム寺の坊主のほっぺたに、バシッとビンタを食ら わせたのだった。(タイでは、人の頭を撫でたり、叩いたり、ほっぺたにビンタを食らわせたりすると、侮辱したと見なされる。 特に僧は国民から尊敬され、大事にされている。)日本の鉄道隊とタイの警官隊との銃撃戦になってしまった。・・・・・・・・・・

 このバーンボーン事件がきっかけとなり、タイ人はついにカンカンになって怒りだした。「ここはタイ国なのだ!何故俺達タイ人を苛めるのだ!威張る なユン!タイ人を馬鹿にするな!」と自尊心を踏みにじられたタイ人の愛国心が瞬く間にタイ全土に広がった。・・・・各地で反日感情の火の手がメ ラメラと燃え上がった。道を歩いても白目でジロリと睨み、「アイ・ユン」と罵られ、身の危険を感じるようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

( 『父と日本に捨てられて』 瀬戸正夫著  p115、116より)

欧米なんかよりも自分達からタイ人を解放してあげれば実に喜ばれたであろう。この後、もし中村明人中将が赴任しなければ、タイは今頃最も強力な反日 国家となってしまっていたに違いない。

8月15日の敗戦日、タイでも例によって、対日悪感情が爆発し、日本人の生命・財産は危険にさらされた。駐タイ大使山本熊彦によれば

ほとんど連日のごとく住居や建造物は襲撃され、物資は略奪され邦人は戦々恐々として1日も安きを得ず

(『山本熊一遺稿』 外交資料館蔵)

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       6、バターンを忘れない

                   ━ フィリピン ━

戦後フィリピンで行われたアジア水泳大会で日本人選手がメダルを獲ったが、石を投げられたりして表彰台には立てなかった。日本選手団が がフィリピン人から浴びせられた声は、「オイ、コラ、バカヤロー、カエレ」だった。戦時中の日本兵がフィリピン人に向けた言葉をそのまま浴び せられたのである。バターン死の行進での死者は約9割がフィリピン人であったと言われている。

『下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫)の中で山本七平は「石をもって追われた」日本軍の撤退の様子を次のように伝えている。
「30年前の、マニラ埠頭の罵声と石の雨を、昨日のことのように思い出させたからである」

現在日本では、日本軍は多くのアジア人に歓迎されたような事を言う人もいるが、バカも休み休み言え・・と言うしかない。
小松真一の『虜人日記』を読んだ事が無いのだろうか?

・・・『バカ野郎』『ドロボー』『コラー』『コノヤロウ』『人殺し』『イカホ・パ ッチョン(お 前なんぞ死んじまえ)』  憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。 隣の人の 頭に石が当たり、 血がでた・・・」 (『虜人日記』)


これは21年4月、戦後8ヶ月目の記録であり、従って投石・罵声にもやや落ち着きがあるが、これが 20年9月ごろだと、異様な憎悪の熱気のようなものが群衆の中に充満しており、その中をひかれて行くと、今にも左右から全員が殺到して来て、八つ裂きの リンチにあうのではないかと思われるほどであった。(『下級将校の見た帝国陸軍』)


フィリピン在留の民間人新美彰は9月にルソン島の山村で米軍の保護下に入ったが、その頃になっても沿道の人々は彼女達の乗ったトラックに 石を投げたり、日本語で罵ったりした。
(新美彰・吉見義明 『フィリピン戦逃避行』)


敗戦時に、これほど憎まれてしまったのは、平素の行いが悪かったからだろう。
フィリピンでもビンタは炸裂していたのである。
フィリピンの人にとって、平手打ちを受けるよりは蹴られた方がましだという。平手打ちは相手を殺したくなるほどの屈 辱なのである。日本兵は、内務班の中で、教育的指導と称し部下に日常的にふるっていたのと同じ感覚でフィリピン人に対しても平手打ちを浴びせた。

比島派遣軍参謀部で情報を担当していた元少佐、一木千秋氏はこう指摘する。

「 日本から来た軍隊は、中国や満州におったんで、フィリピンのことを知っているわ けないからね。フィリピンの風習とか習慣というのは知らないで来て、戦場に出されたというような状況でしょう。フィリピンのことを知 ろうともしなかったし、また、上も知らせようとしなかった。

例えば、パラオでの飛行場建設なんかで、あそこはイスラム教徒ですがね、左手で叩くともうたいへんなのに、左手で殴ってね、非常に敵愾心 をあおって、襲撃を受けたりしたね。習慣を知らないからね 」
『レイテに沈んだ大東亜共 栄圏』 P.83より

マレー半島と同じくイスラム教徒が圧倒的に多い蘭印では、日本憲兵の現地の慣習を無視した行為が終戦後、BC級 の起訴事由になった。イスラムでは左手は不浄とされ、左手で物を与えたり、人前で人を叩くことは厳禁されているが、憲兵は遠慮会釈な く左手でも現地人を殴って恨みを買った。
『BC級戦犯』  P.172)


『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録愛蔵版』の中で、
司馬遼太郎が、
「昭和元年から20年まで話をずっとして・・・いまだに思う事はひとつです。あれは 日本だったんだろうか?」(P208)
 と嘆息し、
「いったい昭和期の軍人(軍の中枢にいた人)に愛国心があったのだろうか。」(P203)

   と問いかける日本軍の姿であった・・・。

『BC級戦犯』 
bc戦犯


<参考> 南京虐殺
http://blogs.yahoo.co.jp/rennrinoeda123/48513001.html



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